【早春賦の思い出】


 立春を過ぎた初午の日、今年厄年に当たる善男善女が赤いちゃんちゃんこを身にまとい、日本最古の厄除け寺と伝えられる松尾寺への一本道に列をなす光景は、今も昔も変わらぬここ大和郡山、早春の風物詩ですがこの時期なると決まって思い出すのは、亡き妻の父方の伯母が、お世辞にも上手だとは言えない、調子はずれのメロディにのせて口ずさむ「春は名のみの風の寒さや…」で始まる早春賦でした。
 そして昭和45年、森繁久彌さんが作詞作曲し、加藤登紀子さんが歌って一世を風靡した「知床旅情」が世に出たとき、その最初の二行がこの早春賦の最初の二行によく似ていると評判になったことも思い出されました。
 元来この歌は、沖縄をテーマにした「西武門哀歌(にしんじょあいか)」という歌のレコードのB面にカップリングされていた歌で、作詞作曲の森繁さんが、映画「地の果てに生きるもの」で北海道知床半島に長期ロケを行った時、退屈しのぎに興のおもむくまま、即興で作った「オホーツクの舟唄」で、森繁さんが吹き込んで、コロンビアレコードから出ていたものなのです。
 そのお蔵入りだった、フォーク調ともいった感じのレコードが、フォークソングの流行で陽の目をみるようになり、当時国鉄の「ディスカバージャパン」キャンペーンと連動したからたまりません。あっという間に全国津々浦々の国鉄の駅にこのメロディが流れ、おかげで本家の森繁節も見直され、こちらの方も別な意味で人気を博すようになったのです。
 さらにもう一つ付け加えるとすれば、この早春賦の作曲者・中田章(なかだあきら)さんは、あの「めだかの学校」や「小さい秋みつけた」といった童謡や、今も歌われる「雪降るまちを」という名曲をお作りになった作曲家・中田喜直(なかだよしなお)さんのお父さんだというのですから、蛙の子は蛙というか、今風に言えば、DNAは厳然と生きてはたらいていると申すべきでしょうか、早春賦の思いでから、まるで連想ゲームのように、次から次へと思い出の水の輪が広がった朝のひとときでした。
(2024年2月)