「雨功徳」


 いよいよ六月、やがて梅雨入りの季節ですね。
 雨といえば、毎年思い浮かぶ古い川柳があります。
 
 同じ字を雨(あめ)雨(さめ)雨(たれ)と雨(くれ)るなり

 おわかりになりましたか。
同じ「雨」という漢字を、長雨とか通り雨のときは「あめ」と読みますね。
でも、春雨や霧雨の時は「さめ」、五月雨の時は「たれ」、そして時雨の時は「くれ」と読みます。
誰が考えたかはわかりませんが、いかにも洒落た句ではありませんか。
 ところで皆さまは「法の雨」と書いて「法雨(ほうう)」、「法の水」と書いて「法水(ほうすい)」という言葉はご存知でしょうか。
 お寺にはよく「法雨を灌(そそ)ぐ」という額が掲げられていますが、これはお悟りを開かれたお釈迦さまが、雨を注いで草木を潤すように、尊いみ法のお声で、世の人々の迷いの夢をお覚ましになったという大無量寿経に説かれたお言葉です。
 また別のお経には、
 「雨降って山頂にとどまらず、必ず低きところに流る。もし人おごりて自ら高ければ、すなわち法水入らず。自ら低ければ、法水ただちにこれにこれに帰す。」
と教えられています。(大智度論)
 つまり、何を聞いても「知っています、わかっています」と自らの知識を誇っているかぎり、相手の言葉は耳には入りません。仏法は自らの心を空っぽにして、うなずき、うなずき、素直にお聞かせいただいてこそ、身につくものだとのお心でしょう。
 私たち日本人は、四季を通じて雨が降る国で暮らしていますから、雨のありがたさに気が付かず、どちらかと言えば、雨を嫌う人が多いようですが、仏教には、雨の功徳と書く「雨功徳」という言葉もあり、先ほどの大無量寿経には、
 「菩薩さまのすぐれたおはたらきは、甘露の雨を降りそそいで人々を潤す大雨のようである」
とも説かれています。
 思えば、今、あなたのお口からあふれ出て下さるお念仏は、長い長い年月の間、あなたの先輩たちのお声を通して地下水のようにしみ込んで下さった「ナモアミダブツ」なのでしょうね。
(前住職 法話のしおり 6月)